氏名:
【佐浦あつし】ニックネームは「らっち」
1975(昭和50)年2月生まれ
うお座 A型 男性
身長163cm 体重…見たまんま
神奈川県海老名市在住 既婚
肩書:
スタジオ【アイ アピール】代表
(創業:2014年2月23日)
・表情写心家(フォトグラファー)
ほか
・情熱ライフナビゲーター
・指針整体師
・骨盤力ストレッチ インストラクター
・タッピングタッチ インストラクター
・セロトニントレーナー
・睡眠指導士
・価値観ババ抜き インストラクター など
(以上、現在休止中)
理念:
「ひとのやさしさ、あたたかい世界を創る」
屋号の由来:
スタジオ【アイ アピール】の名前には、
3つの願いと想いを込めています。
【eye appeal】
人目を引く視線、魅力、美しさ。
【I appeal】
人に呼びかける。自分を表現する。
「自分は、今ここにいる」
【ai appeal】
自分にも相手にも関心を持ち、
幸せを願う慈愛の気持ち。
マイクレド(約束):
第1条
「私は、他人の痛みが理解できる“共感力”を持ち続けます。」
第2条
「私は、どんな小さな変化も見逃さない“感性”を持ち続けます。」
第3条
「私は、理性を保った自然豊かな“感情”を持ち続けます。」
趣味・特技:
家庭菜園、賄い料理、陶磁器鑑賞、写真、動画製作、剣道初段、草野球
ここから、佐浦あつしの経歴を、
時系列に沿って詳しく書きます。
なぜ、起業したのか?
どんなきっかけだったのか?
長~い文章でダークなネタが満載ですが、
ご興味のある方、お付き合いください。
~誕生から幼少期~
1975年2月、2人兄妹の長男として、
神奈川県大和市にて誕生。
1977年、神奈川県厚木市へ移住。
妹が生まれる。
1979年、私立毛利台幼稚園入園。
生まれた時は、とても美形だったらしく、
病院中の看護師が顔を見に来たらしい。
病院始まって以来の快挙とのこと(母談)
人生最大のモテ期がここ↑(笑)
この頃は、活発で外で遊びまわる、
元気いっぱいな子供で、感受性が豊か(母談)
いつの間にかピアノを習わされていた。
~小学生時代 その1~
1981年、厚木市立毛利台小学校入学。
明るく校庭を遊びまわる活発さと、
勉強好きな一面があった。
1年生の時、最初の事件が起きる。
算数の時間、先生に問題を指された問題を、
自信満々に答えて、見事に間違える。
なぜ間違えたのか、なかなか理解できず、
クラス中笑われて、恥ずかしい思いをする。
「間違える=恥ずかしい」という公式ができて、
手を挙げたり、意見を言うことなど、
人前での意思表示を、一切しなくなった。
~小学生時代 その2~
この事件が起きてから、明朗活発さが消え、
大人しくおっとりした無口な性格に変わった。
勉強も以前ほど率先してやらなくなり、
危機感を抱いた母がスパルタと化す。
特にテスト前などは、オレの後ろに座り、
よそ見や眠そうな素振りをしたなら、
定規で一閃された…
(愛と言えば愛なのだろうが…笑)
しつけも同時に厳しくなり、
間違ったことがあれば、すぐビンタが飛んだ。
父は金融機関勤めの猛烈サラリーマンで、
あまり家にいなかった記憶しかない。
生きていることが窮屈に感じてきた。
~小学生時代 その3~
小学校4年の時、剣道を始める。
めったに外に遊びに行かなくなって、
近くの道場に連れていかれた。
体幹の強さや礼儀正しさは、
剣道で身についたので、
そこは感謝しているが、
良いも悪いも、好きも嫌いもなく、
鬼より怖い母に逆らわないことしか、
当時は考えていなかった。
ソフトボールを始めたのもこの頃。
理由は一緒。
そして、人生前半での最大の事件が起きる。
ちょうどこの頃は育ち盛りで、
とにかくよく食べて、食べ過ぎて、
体型がぽっちゃりに変わった。
(これが今の体型の原型…笑)
ある日、学校で健康測定があり、
体重計は前回比+5kgを指した。
それを見た当時の保健の女教師が、
「すご~い、佐浦くん。5kgも増えた~♡」
と、保健室中に響く声で叫んだ。
それが惨劇の始まりだった。
~からかい?ふざけ?いじめ!~
それから、クラス中の注目の的になった。
特に4人でつるんでいたメンバーに、
目をつけられた。
「や~い、5kg」
「や~い、5t」
「おい、デブ、ブタ!」
言葉が変わるのもあっという間、
オレも初めは嫌だったので、
「止めてくれ」と言ったりもしたが、
そんなことで止める連中じゃない。
だんだんこっちも面倒になって、
だんまりを決め込んだのいいことに、
いろんな行為がエスカレートしていった。
罵声、怒声、殴る、蹴る、
教科書や持ち物を隠される、
ゆすり、たかり、金品の強要、恐喝…
恐喝の類はすべて突っぱねたが、
言葉や身体の暴力がより過激になった。
ある日、昼休みに図書室で、
本を読んでいた後ろから、
首を絞められた。
記憶があるのはそこまでで、
気が付いたら床に寝転がっていた。
しばらく気絶していたらしい。
みんな遠巻きにしていたが、
誰も何も言わなかった。
そして極めつけは、
葬式ごっこ。
風邪で休んだ次の日、オレの机の上に、
花が生けてある花瓶と、
ご丁寧に遺書まで置いてあった。
ひとりで淡々と片づける間、
手伝ってくれる人や、声を掛ける人は、
誰一人としていなかった。
そりゃそうだ、
みんな関わり合いたくないし、
関わったら次のターゲットにされる。
屈辱だった。
人を信用しなくなったのも、この頃からだ。
誰にも相談しなかった。
いや、できなかったというが正確か。
家には、鬼より怖い母親。
言えるはずがなかった。
先生に言ったところで、
あとで報復されるのはわかりきっている。
一度ならず、オレの隠された私物が、
女子トイレから見つかって、
先生が対応したんだけど、
正直「余計なことしてくれるな」とすら、
思っていたくらい。
だって、何の解決にもならんもん。
結局、様々ないやがらせは、
卒業するまで、なんだかんだで続いた。
当然、小学生時代にいい思い出は、
何ひとつなかった。
~中学生時代~
1987年、厚木市立玉川中学校入学。
学区が一緒なので、
生徒は小学校からの持ち上がり。
何も期待はしなかった。
習っていたピアノとソフトボールは辞めて、
剣道部に所属。3年次には部長。
身長もセンスもなかったので、
県大会にも結局行けなかった。
いじめは小学校ほどではなかったが、
たまに似たようなことが起きた。
違う小学校から来ていた、
初恋の女の子に見られて、
「何でやりかえさないの!?」と、
言われたのが、一番辛かったな。
それが尾を引いて、
告白もできなかったのは、
苦い思い出(笑)
余談だが、社会人をだいぶ経た頃、
中学の同窓会があった。
例の4人組のリーダー格も来ていて、
向こうから話しかけてきた。
「お前、佐浦だよな!? ああ、何となく覚えている。」
やられた方は事細かく覚えているが、
やった方が、きれいさっぱり忘れている。
結構、そんなものである。
~高校時代~
1990年、神奈川県立厚木西高校入学
みんな進路がバラバラになり、
いじめも自然消滅して、解放感に浸る。
相変わらず、無口で大人しく、
人を容易に信用はしない。
性格はそうガラッと変わらない。
高校でも剣道部に入り、3年時に部長。
初段になったが、インターハイ予選は、
県大会にすら出られなかった。
卒業時に、何人かの親友と、
人生初の彼女ができた。
ホントに夢も希望もなかったけど、
もし人生やり直すなら高校時代。
当時は、国語と社会は抜群だったけど、
理数系や英語は赤点すれすれ。
もし今やりなおせるなら、
もっと理数系を勉強して、
建築かデザインをやりたいなあ。
~大学時代~
1994年、大東文化大学経済学部経済学科入学。
一浪して入ったが、
明確な目標は何もなかった。
予備校の模試判定で出た、
受かりそうな大学の、
就職のつぶしがきく学部、
たったそれだけの理由。
何をしたいのか、何をやりたいのか、
夢も希望も情熱も、何もなかった。
1・2年時は、埼玉の東松山だったので、
バス、小田急、JR、東武東上線、バス、
本厚木から乗り継いで片道3時間!
よく通って忍耐力はさらに向上(笑)
授業は、まじめに出席して、
興味のある勉強は熱心に受けた。
サークルは、旅行系の、
「ユースホステル研究部」に所属。
4年次に会計局長。
きっかけは、最初に勧誘されたから(笑)
それでも、みんなで計画をたてて、
旅行に行く楽しみは、今でもいい思い出。
その費用を捻出するために、
地元のホームセンターでバイト。
初めての仕事で、やればやるほど結果が出て、
働く面白さを知り、結構夢中だったな。
当時、全国でも屈指の売上で、
店長もまたクレイジーで、
バイトなのに深夜まで働かせていた。
今じゃありえないけど、たまに夜食まで出て、
それはそれで、面白く充実していた。
今でも何人かは、「戦友」として、
いい友人関係を続けている。
~就職~
1998年、地元の総合物流会社に就職。
やりたいこと? 特になし(笑)
決めた理由? 一番距離が近かったら。
他にも、信用金庫、生協、リフォームなど、
いくつか内定もらってたけど、
結果論だけど、いい選択じゃなかった。
楽しいと思えない仕事は、やっぱり苦痛。
それでも、25の時に、
7年半つき合った彼女と結婚、
2人の男児に恵まれた。
一家の大黒柱として、
夢がどうのとか、やりがいとかの以前に、
稼いで食わせる使命感にだけは、
燃えていた。
業績が傾き、ボーナスも半減されたのを機に、
より稼げる職種に転職。
~転職、そして転落~
2003年、東証一部上場の某居酒屋チェーンに転職。
一世を風靡したカリスマ経営者の企業。
料理が好きだったし、
成果が出れば出るほど稼げる実力主義。
だけど、身の程知らずという言葉が、
一番ぴったりだったね。
15時すぎから出勤して、
終わるのは朝の7時。
一日平均18時間労働!
自宅から交通の便が悪かったので、
通勤時間往復3時間。
なので、睡眠時間は3時間未満。
毎週月曜日は、東京の本社で、
朝から半日会議なので、
自宅へ帰れず、店に戻り仮眠。
メニュー更新の時期には、
調理研修で本社に行き、
オペレーション打ち合わせで、
店舗で研修。これまた徹夜。
さらに、教育の一環として、
1ヶ月に20本のレポートを出され、
睡眠時間をさらに削って制作、
月曜日の研修に提出。
勤怠は「すべて手書き」で申告、
残業時間は2時間までと通達。
だから、勤務時間は、17:00~28:00
当然、会議や研修の時間は記入ゼロ。
極端な睡眠時間不足で、
みるみる内に、げっそりやつれ、
体重は60Kgジャストまで落ちた。
一方、店の中ではというと、
店長に厳しくしごかれ、
ベテランバイトの猛者たちから、
激しく突き上げられ、
繁忙期の年末などは、
調理場で次から次へと吐き出される、
注文票に追われ、さばききれず、
怒声でさらに追い込まれる。
ぶっちゃけ、
性格的にこれほど向かない職種に、
ブラックな労働環境。
生気がなくなり、目はうつろ、
気が付けば、駅のホームの端に立っている。
「稼がねば」の根性と気力だけでは、
もはやこれ以上命が危ないと察知、
半年でリタイヤ。
ちなみにこの会社、
2008年に新入社員が自殺して、
大きな社会問題になった、
「あの」ブラック企業です(笑)
あと少し長く勤めていたら、
きっとオレがその渦中にいただろうと、
今でも確信をしている。
~そして「うつ」になる~
2004年、東証一部上場某ホームセンターに転職。
大学時代にバイトしたホームセンター。
正規の中途採用試験を受けて内定。
夜から昼の仕事に戻り、
労働時間も労働基準法の中に納まり、
勝手知ったオペレーション。
じぶんらしさを取り戻し、
比較的平穏な生活になった。
ところが、新しい店長が赴任、状況が一変。
オレがバイト時代の社員で、顔見知り。
昔の知り合いということもあり、
いろいろと熱心に指導してもらったが、
次第にエスカレートしてきた。
激しい叱責、詰問、
全体朝礼で名指しでつるし上げられ、
お客様のいる売場で30分以上も説教くらう。
普段なら何でもないことでも、
ミスが多発してきて、ノルマも当然未達。
「何とかしなきゃ」「頑張らなきゃ」
気持ちだけがどんどん空回りする。
自宅へ帰っても、仕事が頭から離れず、
眠れなくなって、寝酒をする。
日に日に酒量も増え、飲む中身も、
ビール、焼酎、ウィスキーと、
アルコール度数が高いものに変わり、
しまいには「大五郎」4Lペットが、
1週間経たずして空になる始末。
そして、ついに、
布団から出られなくなった。
31歳の頃である。
~終わりの始まり~
考えることもできなくなった。
じぶんの手や足も動かせなくなった。
あの感覚は、人間として廃人というか、
バチンとシャットダウンする様な感じ。
当時の嫁が異変に気が付いて、
総合病院に、文字通りに担ぎ込まれた。
ついた病名「うつ病」。
まさか、このオレがなるとは、
夢にも思っていなかった。
「うつ」とか精神病なんて、
対岸の火事だと思っていたので、
青天のへきれきというか、
本気で人生終わったと思った。
医師の勧めで、3ヶ月近く入院したけど、
血液検査で800㏄近く血を抜かれて、
具合が悪くなったという以外、
そこで、どんな治療をして、
どういう生活をしていたのか、
記憶がまったく思い出せない。
~長引く「うつ」~
薬物療法が少しは功を奏し、
最低限の日常生活は送れるようになった。
ただ、体力はガタ落ちして、
50m歩いただけでへたり込む始末。
結局、1年半休職したが、
職場復帰はできず、そのまま解雇になった。
人生初の無職。
これで人生がさらに終わったと思った。
正社員から脱落すれば、もう戻れない。
そう信じていた。
体調も、低いレベルで上がったり下がったり、
以前はなかった肩こりや腰痛も激しくなり、
出口の見えない絶望だけが、そこにあった。
~破局~
オレもオレでやり場のないイライラがあり、
妻も妻で2人の子供を抱えて不安MAX。
実家同士でも激しく揉めて、
一番ひどい状態のはずのオレが、
仲裁に入らざるを得なかったりなど、
些細なことで、いざこざが起こるようになり、
口論や喧嘩が絶えなくなっていた。
3度目の短期入院から帰ってきて、
自宅の玄関を開けたときの衝撃は、
未だに忘れない。
オレの荷物だけが残された、
歯抜けのような部屋。
嫁が2人の息子を連れて、
荷物共々実家に帰った痕跡。
「絶望」という意味を、
心の底から味わった瞬間だった。
~自殺未遂~
結局、そのまま離婚した。
せざるを得なかった。
目ぼしい財産は、ほとんど渡した。
借りていた住まいは返却。
オレは実家に引き取られた。
「オレは何のために頑張ってきたんだろう?」
ポッカリ空いたじぶんの穴。
虚しさだけが残っていた。
ある日、いつものように、
薬の袋の手を伸ばした。
気が付くと、抗うつ薬や睡眠薬を、
全部バラバラしていて、
両手山盛り2杯分くらいの、
クスリの山ができていた。
そして、片っ端から、
口に放り込み、全部飲み干した。
目の前が真っ暗になった。
これで、オレは、
「もう楽になれる」と思った。
~どん底からの脱却~
気が付くと、ベッドの上にいた。
丸2日眠っていたらしい。
とても、気分がよかった。
「うつ」になって以来はじめてのこと。
あとで知ったんだけど、
オレが飲み干した薬では、
いくら飲んでも死なないらしかった。
そんなことはどうでもよかった。
感覚で言えば、肉体はそのままでも、
精神的には「生まれ変わった」感じ。
そこから、ブレーカーが入ったように、
どんどん回復していき、
ようやく社会復帰した。
~V字回復のはずが…~
仕事にも復帰し、
病院の看護助手(介護)のアルバイト、
障がい者支援施設の支援員、
ディスカウントストアの売場責任者、
など経た。
この間に、今の妻と再婚するなど、
順調にいくかと思われた。
6度目の転職で、
ホームセンターに正社員で就職。
一番稼げるであろう選択をしたけど、
これが裏目にでた。
業績悪化による人件費削減により、
部下のパートさんアルバイトさんが、
半分以下になってしまった。
当然しわ寄せは、正社員のオレに来る。
やがて売場が維持できなくなり、
本部や店長からの指示もさばき切れない。
「あ…そろそろヤバいかも」
そう思った瞬間に、ダウン。
2度目の「うつ」突入。
~すべてを変える!~
また布団から出られなくなった。
またシャットダウンをしてしまった。
けど、一度やっているので、
妙な安心感があった。
何をどうすればどうなるのかが、
じぶんの中で経験済みだったから。
会社からは、1ヶ月の休養か退職か、
どちらか選べと言われたので、
迷わず退職することにした。
このまま復帰しても、
きっとまた同じことする。
「二度あることは三度ある」
このままではオレは絶対変わらない。
ようやく悟った。
すべてを変える決意をした。
サラリーマンを辞める。
正社員を捨てる。
言葉を変える。
考え方を180°変える。
選択も行動も変える。
そして、じぶんの経験を、
何らかの形で伝えたい!
人生ではじめて、生きる意味、
生きる目的を持った瞬間でもあった。
時は、2012年8月末日。
~プロフェッショナルへ~
「当時のじぶんが知っていたら、
”うつ”にはならないはず」を基準に、
「からだとこころのメンテナンスを、
じぶんでできるやり方」を次々学んだ。
まずは、整体法を学ぶ。
2014年2月23日「指針(現:骨盤力)整体師」修了
脳内神経伝達物質セロトニンの第一人者である、
東邦大学医学部名誉教授の「有田秀穂」先生に、
その理論や活用、実践方法を直接学ぶ。
2014年8月21日「セロトニントレーナー」修了
お互いにふれることで、からだとこころを癒す、
ストレスケアの技法「タッピングタッチ」
2014年7月1日「タッピングタッチ インストラクター」合格
最新の心理学の基礎理論と実践法。
2014年12月23日「日本メンタルヘルス協会 心理学ゼミナール基礎コース」修了
脳の専門家による「睡眠の理論と実践」を、
作業療法士「菅原洋平」先生に学ぶ。
2015年3月24日「睡眠指導者育成講座」修了
60枚のカードを使ったゲームを通して、
じぶんの価値観を理解し、活用する。
2015年7月12日「価値観ババ抜きインストラクター養成講座」修了
「砂羽美佳」さん主催。15のしつもんに答えることで、
じぶんの「情熱の源泉」がわかる。
2016年4月20日「情熱ライフ ナビゲーター養成講座」修了
~映像の世界へ~
日本メンタルヘルス協会で、
心理学の基礎を学んでいたときに、
各講座の最後に「あるもの」が流れる。
3分間くらいの「メッセージMovie」
何気ない文章、心に刺さる言葉、
関連する美しい風景、ひと。
見終わる頃には、オレは涙でボロボロ。
今までずっと、どんなことがあっても、
一切泣かなかった、泣けなかったのに。
周りからも、多くのすすり泣きや、
ハンカチで目頭を押さえる人たち。
多くのひとの、心を揺らし、
感情を動かし、感動を生む。
「こういうやり方もあるんだ!」
「オレもMovieを作りたい!!」
いたく感動したオレは、
このMovieを作った人を探して(うのつとむさん)、
やり方作り方を教えてもらった。
2015年1月25日「かんたん感動ムービー制作講座・基礎」修了
2015年2月8日「かんたん感動ムービー制作講座・ステップアップ」修了
じぶんのことや、誰からか聴いたいい話、
そんなをモチーフにかれこれ30作以上制作。
そして、全国のムービーカウンセラーの、
作品が一堂に集まる大会「ムービー甲子園」
オレも出品させてもらって、その結果、
三賞の中から「もう一度観たい!賞」を受賞
2016年も出品、「もう一度観たい!賞」を2連覇達成!
2回の「ムービー甲子園」で、
オレも現地でみんなの作品をみて、
ある確信が湧いてきた。
「映像は、より多くの人に想いが届く」
確かに整体やカウンセリングは、
1対1で、相手の改善を図る。
でも、映像は見た人の数だけ、
場所も時間も一切問わず、
しかも、直接オレがいなくても、
感情を揺さぶり、感動を生み、
様々なきっかけを与えてくれる。
映像の世界にシフトする決意をした。
2016年6月18日のこと。
~そして、写心へ~
メッセージMovieをつくる過程で、
様々な素材を集めてくる。
文章はじぶんで閃いて作るけど、
音楽と画像は、著作権フリーの素材を、
無料や有料サイトからダウンロードする。
文章と音楽はある程度、
じぶんのイメージ通りのものが選べるけど、
画像は、ピッタリに近いものが、
なかなか見つからないことも多く、
結構な割合で、高度な妥協をしている。
それなら、じぶんで画像を撮った方が、
イメージに合うし、早いんじゃね!?
と思って、写真を始めた。
写真を始めたもうひとつの理由は、
プロフィール:【オモテ】に書いた通り。
~あとがき~
じぶんのことを、こうやって、
改めて振り返ってみると、
「じぶんでじぶんを背け続けた人生」
「他人優先、他人の目を気にしてきた人生」
「じぶんの情熱を燃やさなかった人生」
様々な出来事は、
「オレにそのことを気づかせるきっかけ」
だったのだろう。
生まれてから、30代までは、
オレの中では「黒歴史」
40年近く、いわば、
人生を棒に振り続けてきた。
こんなオレの経験は、
もう二度としたくはないし、
他の人にもして欲しくはない。
自殺未遂をして思ったことがある。
「ひとの人生は簡単に終わる」ということ。
「朝、必ず目を覚ますとは限らない」ということ。
今、この瞬間、生きていることが、
「様々な偶然を経た奇跡」だということ。
じぶんの人生は、じぶんの情熱に従って、
やりたいことを思う存分やる。
じぶんの人生は、じぶんの好きなように生きる。
人生は短い。
オレは残りの人生を、情熱的に生きるし、
情熱的に生きたいひとに、いい関わりをしたい。
そして、ここまで読んでくれた、
あなたのことを応援したい。
最後まで、ありがとう!
表情写心家【佐浦あつし】
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